G-QCX3G9KSPC
閉じる

ソーシャル・インクルージョン

公明党が2010年12月に発表した「新しい福祉社会ビジョン」では、共生社会を実現するうえでの基本的な方向性として「ソーシャル・インクルージョン(社会的包容力)」について言及されている。最近「支援」について考えるときに、このソーシャル・インクルージョンという考え方を常に思い起こしている。

 私がかつて山梨県庁の障害福祉課に平成10年から平成13年まで在籍した当時は、福祉の基本的な思想は言うまでもなく「ノーマライゼイション」であり、「ソーシャル・インクルージョン」という考え方については概念は知っていても、まだまだ日本の社会状況がこの考え方のレベルには到達していなかったと記憶している。

 当時日本の福祉政策は欧米から半世紀遅れているといわれ、ようやくハンディキャップを負っている人でも「施設」ではなく「地域の一員」として暮らしていけるような「地域生活支援」の仕組みづくりが求められてきた「転換期」にあった。その施策をリードする基本的な考え方が「ノーマライゼイション」であり、物理的、心理的な「バリア(障壁)」を取り除いて、地域生活を可能にしようという動きが活発化した。

 その結果、道路や建物などの段差を解消したり、エレベーターやエスカレーター、また移動手段の改善などが進んだ。これはこれで大きな成果であり、否定する気は全くない。しかし、あるときふとノーマライゼイションの考え方の限界を感じたことがある。

 それは甲府駅近くで、高齢の女性が手押し車がほんのちょっとした段差のために歩道に上がれず、四苦八苦している場面に遭遇した時である。手押し車を歩道に上げるのを手伝って、その女性から大変感謝されたとき、「バリア」を取り除くことだけに腐心して、大切な「人の手によるちょっとした手助け」のよき伝統が失われてしまわないか、とはっとしたのである。

バリアを取り除けば、お互いに相手の手を煩わすこともなくなるだろう。が、次第に人と人との接触が薄れ、いわゆる「お互い様」という古きよき時代の当たり前の「支えあい」が崩れていかないか?

 この時自分の脳裏に湧き上がった疑問、それは「ノーマライゼイション」の考え方自体が、健常者社会の論理、すなわち、「バリア」や「垣根」を取り除いたから、どうぞこちらの社会へいらっしゃい、と言っているように思えてならなかった。そこには無意識のうちにまだ拭いがたい差別意識が厳然としてあると当時愕然としたことを今でも思い出す。今から10年以上前の話である。

 その時に出会ったのが、このソーシャル・インクルージョンの考え方である。当時自分なりの解釈として、「社会」のなかには、健常者もハンディを負っている人も、また子供もいれば年よりもいる、これをひっくるめて「一つの社会」がある。「社会」というのはこうした「多様性」に対して「寛容」であるべきで、またこうした多様性をもつ「構成員」に対して暮らしていくうえで「支援」が必要な人には、「社会」の責務として必要な支援を行っていく、というのが今後の方向ではないか。稚拙ながらこうした考えが自分の中で膨らんでいった。

 あれから10年以上が経った。方向性は決して間違っていなかったと、党の「ソーシャル・インクルージョン」の記述を目にしたとき強く感じた。が、昨今の生活保護制度に関する様々な課題が指摘されている状況に直面した時、どこまでが本人のためになる「支援」なのか、ということに思いを巡らす日々が続いている。行き過ぎと思える「支援」が本人の自立の妨げになるのではないか?給付だけの支援であれば次第に自立への意欲をそぐことにならないか?自分の人生を自分らしく、というための支援ではないか?

 これは、福祉の分野だけの話では決してない。地域社会が次第に活力を失いつつある現代にあっては、多様性への寛容力をもつ地域社会をつくっていくこと、また自分も地域社会の一員として、地域を支えようとする担い手の登場を期待するうえで、ソーシャル・インクルージョンは極めて示唆に富む考え方である。

最近のコメント

表示できるコメントはありません。