最近読んだ本に「理想だらけの戦時下日本」(井上寿一著)がある。日中戦争の勝利を目指して国民を一致団結させるために生まれた「国民精神総動員運動(精動運動)」の検証をとおして、こうした運動が国民の間に明確な目的観が共有されないまま進められ、最終的には挫折していく過程を資料をもとに見事に描き出している。
当時の社会状況は、上流階級と下層階級との間に厳然と広がっていた格差に不満が渦巻き、これを是正しきれていない政治に対する不信感、またお互いを助け合う共同体への志向と、現在の日本と重なる点が多い。
国民の目を何としても戦争に向けさせ、挙国一致で戦争を遂行するために生まれた官製運動である精動運動であるが、何のために戦争を遂行するのか、また何のためにこの運動をしなければならないのか、という基本的な目的観が国民の間に必ずしも共有されずにすすめられた、と考えられる。
当然のことながら、国民の間ではどこか他人事であり、大陸での戦争ということもあってか、なかなか意図したように動かない状況にあったようだ。この運動が国民の自発的な意思に支えられたとするならば、おそらく「格差の平準化」への賛同だろうと著者は指摘している。
実は、戦争遂行という目的よりもこの格差是正に国民は目的観を見出していたのではないか。運動が一定段階まで続いたのは、貧困にあえぐ層が圧倒的に多い一方で富裕層は厳然と存在し、華美な暮らしを送っていたように映ったことが大きな要因だろう。
戦争遂行の名のもとに、こうした富裕層の贅沢な暮らしを制限し、大多数の国民と同じく質素なものに転換させることにおそらく溜飲を下げる者が多く存在したことにより、官製運動であっても拡がりを見せたと推察される。著者はこれを「格差の下方平準化」と定義づけているが、別の見方をすれば「出る杭は打つ」的な状況であると考えられる。こうした社会状況は、往々にして嫉妬や中傷を生みやすい。
精動運動が衰退していったのは、運動の中心者と国民の間に「目的観」が決定的にずれていたことによるものということが出来る。このことは、我々にとっても常に戒めなければならない点である。
活動が空回りしていると感じるときは、おそらく中心者との目的観のずれが大きな要因だと考えられる。逆に中心者は、活動の「大義名分」いいかえれば、「何のために」を明確に語り、皆でこの目的観を共有しきることが重要である。そうしてはじめて一人一人が「義務感」ではなく「使命感」にたって嬉々として活動するようになる。
「目的観の共有」こそが閉塞感を打ち破るキーワードになる。このことをもう一度思い起こしたい。