先日、娘の母校である甲府昭和高校の創立30周年記念式典に招かれ、脳科学者として有名な茂木健一郎氏の記念講演を拝聴した。日本の教育について言及して、これまでの「偏差値」重視の格付け教育に疑問をさしはさんでいる。
あらかじめ用意された「正解」を見つけ出す訓練に腐心した結果、「偏差値」では測れない個人の「個性」に光が当てられていない、大要このようなことをおっしゃっていた。すなわち、実社会では常に「正解」が用意されているわけではない。自分で「正解」を作り出す能力を求められることが多い。
同じような論調には、以前紹介した「はやぶさ式思考法」の川口淳一郎教授がある。また最近読んだ瀧井宏臣氏の「ダントツ技術」に紹介された排ガス測定装置で有名な堀場製作所の社長も同様のことを指摘されている。,
これまでの日本の伝統的なものの考え方は、こうした著名な方々が指摘するように、用意された正解をいかに見つけるか、であり、不正解の場合は「減点」し、それが個人の評価に直結する、という「減点主義」の発想である。
これでは、茂木氏が指摘するまでもなく、ミスをしないことに気を取られ、結果として何もしなければミスをしなくて済むため、何のチャレンジもしない人間が一番優秀だ、ということになりかねない。堀場製作所の社長が指摘されたように、「アチーブメントテスト(学習到達度テスト)だけの教育で育った人間がトップに座っていたことが、日本の企業や社会を蝕み」グローバル化に伴う環境の激変に対応できなかったのが、「失われた20年」といわれた時代ではなかったか。
こうした悪しき「正解主義」の考え方が「減点法」で評価する考え方につながっている。ではなぜ減点主義がこれまでの主流の考え方になったのだろうか?
たぶん、それはミスの方が判定しやすいからであり(正解という基準から外れているという点で)、逆に「優れている」という評価は、「優れたもの」とは何かという基準を持たないため、判定しにくいということに起因しているように思える。分かりやすく言えば、優れているものとは何かが分かっていないため、減点評価しかできないという、哀しい現実がいまだ日本社会にあるということだ。
ミスをすればただちに「叱られる」が、「いいこと」を行ってもなかなかほめてもらえない。このようなことは随所に経験されていることではないだろうか。これが、「あらを探す」とか「足を引っ張る」という風潮につながっている。「ほめる文化」がなかなか根付かないのは、長い間の「減点主義」的な考え方に慣らされたことの帰結である。
減点主義は、とかく重要と思われる事柄についても「出来ない理由」をまず考えがちである。ミスを回避するためには「やらないことが一番」だからである。チャレンジ精神を失わせる大きな原因がこれである。
変化の連続の時代では、「どうしたら出来るのか」をまず考える思考法が重要になってくるのは明らかである。ちょうど「軽減税率」の議論が政治課題に上っているが、「どうしたら出来るのか」をまず考えるべきである。
減点主義的発想からの脱却。このキーワードが今再び蘇っている。