閉じる

何を見て判断すべきか

いわゆる特定秘密保護法案をめぐる国会内外の状況を見るにつけ、情報を見分ける力と何を見て判断すべきか、が改めて問われていると実感している。そして、民主主義が「多様なものの考え方への寛容性」を大前提に、議論を通じての合意形成(妥協点や着地点を見出す努力)を図る、人間の叡智の結晶としての制度であるべきだ、との思いを強くしている。

現代は経済の発展や様々な技術の進歩などを背景に人々の生活水準も比べものがないほど向上し、これに伴ってものの見方も多様化し、社会生活を営む上での「考え方や価値の衝突」と「その調整」が日常的に問題となっている。

この価値の調整の方法として、「民主的なルール」がこれまで普遍的な理念として共有されてきた。その本質は、「議論、すなわち意見を戦わすこと」と「妥協点を見出すことによる合意形成」である。そして、民主主義政治というのは、いかにこの妥協点を見出すかというところにエキスが凝縮されているというべきであり、端的に言えば自分の意見だけを最後まで振りかざし異なる意見は受け入れないという態度は、「民主的ではない」ということである。

この妥協点を見出すうえで求められるのが、前述した「多様性への寛容性」である。多様なものの考え方があって当然だという寛容性がないところに合意は生まれない。そのための努力が、議論を通じて相手の考え方を知ることであり、論点を明確にしながら修正すべき点を見つけ出すことである。別の見方をすれば、「対話という双方向性」を常に意識するということである。

さて、我々国民がこうした議論に際して賛成あるいは反対の意見を形成するときに、何を見て判断すべきか、は極めて重要である。今回の特定秘密保護法案をめぐる議論とその取り巻く状況を目の当たりにしたとき、特にこの感が強くなる。

法案に反対する一部メディアは連日のように著名な文化人や学者のコメントを流し続けた。こうした方々は社会的な地位にあるいわゆる「肩書」をもった方々である。「肩書」を持つ人の発言はそれだけで重く見られる。

しかし、ここに我々が陥りがちな落とし穴があるように思えてならない。すなわち、発言内容の吟味より「肩書」を持つこの人が言うのだから「真実」である、という判断の「飛ばし」になりがちである。

これは、「権威主義的」なものの見方として、指摘されてきた伝統的な特性であるといえる。内容ではなく「肩書」という「権威」がモノを言う、というものである。そして、こうした「権威主義」によって付和雷同的な世の中の「気分」が生まれ、「民意」という「表示」が付されると、あらぬ方向にミスリードされてしまうのである。

「権威主義」は一方で、対極にある意見に「レッテル」を貼って排除しがちである。治安維持法の復活とか稀代の悪法という論調もこのレッテル貼りの類である。

「権威主義」といい、「レッテル貼り」といい、いずれも「デジタル化」した判断方法であるといえる。中身の難しい読み下しをしなくても「真偽」の判断が容易にできることから受け入れやすかったのだろう。なんせ「肩書」や「レッテル」だけで中身は見ないのであるから。

こうしたものの考え方は、これまでの日本の教育の方法、すなわち、「用意された正解をいかに早く見つけ出すか」という思考訓練の繰り返しにも起因しているのではないか。「正解」を瞬時に判断するには、「肩書」や「レッテル」は格好の判断材料になる。

そろそろ、「誰が言っているか」ではなく「何を言っているか」で様々な事象を判断するものの考え方に転換していくべきではないだろうか。

\"