このところの関心の的は、昨年成立した「社会保障制度改革プログラム法」であり、特に、2025年問題を基底においた「地域包括ケアシステム」をどう構築するかである。
高齢化社会の課題と言えば真っ先に「介護」の問題を思い浮かべる人は多いだろう。先日2冊の本を読んだ。一つは、葉真中 顕氏のミステリー小説「ロスト・ケア」。要介護状態の高齢者の死亡率がある地域で突出して高いことに事件性を見抜かれ、犯人が検挙されるストーリーだが、詳しくはここでは紹介しない。
ストーリーの中で介護する側の複雑な心境が微細に描写されているが、そのなかである被害遺族(娘)の心情の吐露が胸をえぐる。離婚して息子を連れて実家の一人暮らしの母親と同居を始めるが、次第に「認知症」が進行し、いつしか実の娘であることも分からなくなり、悪態や異常行動に走るようになる。壮絶な介護に心身共に限界に達しようとしたときに、突然母親が亡くなってしまう。
母親を亡くしたという哀しい感情より、むしろほっとしている自分に気づく。母親の死が実は自然死ではなく「犯人」の手にかかったことが明らかになったときでさえ、犯人を憎む感情が起こらなかった。この場面は、特に認知症の高齢者を在宅介護している者にはありうる話だと思う。もはや身内だけでの介護が次第に限界に近づいていることを的確に指摘している。
もう1冊は、NHKスペシャル取材班の「老人漂流社会」である。昨年放映された番組をもとにした取材記録である。家族が次第に縁遠くなった一人暮らしの高齢者などが、病気になることをきっかけにもはやかつて住んでいた「自宅」に戻れなくなり、病院や施設を転々と「たらい回し」にされる。そんな高齢者の実態を「老人の漂流」として描いている。
特に衝撃を受けたのは、高齢の父親と息子の2人暮らしの世帯で、父親を介護する息子が病に倒れたことをきっかけに父親が「漂流」したケースだ。介護の現場では数多く存在するのではないだろうか。,
いずれも高齢者を支える伝統的なシステム、すなわち家族や親族による「ケアシステム」がもはや現代では通用しなくなってきていることに警鐘を鳴らしている。共通しているのは、SOSを発信できない事情と、このことが次第に地域や社会から孤立し、疎外感を強めていくことにつながり、悲劇的な結末を招くとしていることである。
こうした高齢化社会の進行が招く悲劇的な社会状況を食い止める切り札として、「地域包括ケアシステム」が登場する。わが党がこれまで提唱してきた「お互いに支え合う地域社会(ソーシャルインクルージョン)」の考え方に通じるものであるが、先の書籍が提起している課題、すなわちSOSを発信できない「孤立化」に対して、支える側の地域からの「アプローチ」をどうシステム化するか、という視点を見落とすと、地域包括ケアシステムも空想に終わってしまう。
フォーマルなサービス、つまり「医療」や「介護」などのサービス資源をコーディネートして提供することはある面さほど難しいことではない。現状の介護保険のケアマネージメントをみれば、要介護者側からのアプローチがあるから、これに応じたサービスを組み合わせて提供すれば済む。
問題は、地域でこうしたケアが必要な者からのSOSがないときに、はたしてどうするかである。現状は「申請主義」すなわち要介護者からのSOSがあって初めてケアマネージメントが始動するシステムである。では「申請」がないからといって、真にケアが必要な者を放置していいのだろうか。こうした者を「発見」し、支援の手を差し伸べるシステムでなければあまり意味がない。
こう考えた場合、これまでの社会システムがいかに「客待ち」の受動的なシステムであったかがわかる。地域でいくら「医療」や「介護」のサービス資源があり、単にこれをネットワーク化したところで、「無縁化」や「孤立化」した地域社会であったならば、ケアが必要な者からのSOSはシステムに届かない。’, NULL, NULL, NULL, NULL),
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(‘ だからこそ、地域包括ケアシステムで重要なのは、同システム案に示されている「互助」部分である。いいかえれば、日ごろから日常生活の一部として高齢者を見守っていく地域内の「人間関係」であり、また地域の社会福祉協議会や老人クラブ、いきいきサロンなどの「インフォーマル」なサービス資源をいかに育てていくかである。
以前にも指摘したが、改めて「地域力」ではないだろうか。国の進める地域包括ケアシステムの成功のカギを握るのはまさにこの「地域力」である。決してフォーマルなサービスにのみ目を奪われてはならず、地道な地域活動を通じて培った「地域力」こそが地域での高齢者を支える原動力だと改めて実感する。