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文化がカギを握る

23日に東京帝国ホテルで開催された、(社)行財政調査会と時事通信社が主催する行財政研修会東京セミナーを受講する機会をいただいた。

テーマは、「文化の力」である。これまで地区の文化祭や市民文化祭などにお邪魔し、「文化」という言葉には日常何気なく接してきたが、はてその定義となると、正直いって、もやもやとしたイメージしかなかったのが実情である。

当日、東京大学の小林准教授の講演を伺って、目の前の霧が一気に晴れた感がした。とかく文化というと成果物である「芸術」とイコールに捉えられてきた。だから、特別な才能を持った一部の集団だけがその担い手になることができ、我々のような何のとりえのない人間にとっては、文化といっても鑑賞する側にしかなれず、到底その担い手にはなりえない、とずっともやもやしてきたのである。

かつて、30年以上前に読んだ福永武彦氏の名作「草の花」のなかで、もう一人の主人公汐見が詩人である「私」に対して言った言葉が今でも記憶に残っている。

(‘大要は、「僕(汐見)は君のようにいろんなものを見て芸術的に表現する才能はない。ただ、僕はものを見ることによって芸術家になろうと思ってきた。」他者に評価されることは決して望まず、自分の世界だけでの芸術。おそらくそこには決して譲歩できないほどの「価値観の断絶」が横たわっているに違いない。

それ以来、文化といわれるものの中枢に構えている「芸術」に対しては、懐疑的なイメージが強かったのも事実である。「自分だけのための芸術」というあり方も当然あるし、また、特別な才能を持つ者だけの独占物であるならば、「文化」が果たす役割については疑問を挟まざるを得ない。

しかし、こうした伝統的なイメージを払しょくするのが、「社会を構成する人々によって習得・共有・伝達される行動様式ないし生活様式の総体」が「文化」であるとする考え方である。

簡単にいえば、今我々が暮らしているこの地域での我々の日々の営み、それ自体も「文化」である、というのである。

例えば、今私が住んでいる新田地区。

地区内にある池田公園をアダプト制度により長い間、清掃管理している。また、子どもたちの登下校を見守るボランティアが活躍している。この地域のボランタリーな文化が形成されているといえるだろう。見事なパラダイムの転換である。

このように考えると、誰でも文化の「担い手」となることができることに気付く。しかも地域づくりの中では極めて重要な概念だ。自分の住んでいる地域を誇りに思う素朴な感情や愛情に裏打ちされた地域活動が生まれることへの期待感。また活動を通じての改めて住んでいる地域への誇りや愛情の芽生え。こうした双方向的な効果が生まれることにつながっていくのではないか。

小林准教授は「地域アイデンティティの覚醒」という表現でとらえている。実に的確な表現である。これを「文化の開放」といっても言い過ぎではないように思われる。ここに、「文化」をキーワードにしたまちづくりという切り口が見えてくる。

地域において、「文化」をきっかけとした人と人との交流やつながりが生まれる。これこそが人口減少に向かう「右肩下がり」的な社会構造の変化を乗り越えるための一つの解決策という思いが強くなっている。経済的価値では決して置き換えることのできない価値を生み出す新たな運動として、わが甲府市でも十分展開可能な考え方だと思う。

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