国会では、小渕経産相と松島法相と女性閣僚が同時に辞任に追い込まれた。いずれも選挙区内の有権者への寄付行為の疑いが浮上したものである。
小渕大臣については、主に後援会員の観劇ツアーの経費について収支不均衡であり、参加者の個人負担分以上に経費が支出された形になっていることから、差額分について公選法で禁止されている選挙区内での寄付行為に抵触するのではないか、というものである。
松島大臣については、夏に配った「うちわ」が同じく「寄付行為」に該当するのではないか、という点である。ただ、こちらについては、どういう形状であれば「うちわ」になるか、が争われており、どこか不毛な議論のような気がしないでもない。
いずれも、公選法で最も気を付けなければならない「寄付行為」にかかる認識の甘さは否定できないが、閣僚辞任という形で決着が図られたといえる。
しかしながら、一部に「政権への格好の攻撃材料」であるとか、「法案審議を止めてまで総理の任命責任を徹底追及する」といった野党の考えが漏れ伝わってくる。またか、とうんざりする。
あいもかわらず、ステレオタイプ的なやりかただ。責任追及は大いに結構であるが、大事な国会審議を空転させてまでやるべきことなのだろうか。この問題を突破口にして、政権打倒を実現しようと考えているのだとしたら、本末転倒である。
政権批判というのは、政策の是非というレベルで行うべきである。決して「あらさがし」的な低い次元での話ではない。国民のためにどういう政策を行うのがベターか、を議論するのが国会である。だからこそ国会議員には相応の保障が与えられている。
過去何回もこうした問題で国会が空転した。その結果、時宜にかなったスピーディな政策が実行できず、経済の停滞、国民生活の衰退を招いてきた。国会での不毛な争いによって。
責任追及は、政治倫理委員会や究極には法的責任を問う場が別に用意されている。本来の政策審議を行う場をこのような問題追及で「目的外使用」してはならない、と多くの国民が感じているのではないか。こういうことは、テレビも入らないところで気の済むまでやればいい。
そんなことより、景気をもっと上向かせてほしい、であるとか、超高齢化、人口減へ社会が向かうときに早く明確な手を打ってほしい、といった切実な声がある。こちらのほうがより問題は大きいと誰もが思っている。国会状況で政治不信がまた助長されなければいいが。