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民主主義とは?改めて問う

現在参議院で審議中の平和安全法制に反対する抗議活動が、8月30日に国会前で行われたそうである。報道によれば、主催者側発表で12万人、警察発表で3万人強と、数字の開きも話題になったようだ。

また、民主党をはじめとする野党4党の党首も駆けつけ、法案反対を叫んだようであり、また大学教授や著名な音楽家も参加するなど、日曜日の国会前は人々でごった返したようだ。

デモという形で反対の意思を表明すること自体は、公共の福祉に反しない限り、憲法上基本的人権として認められており、その限りにおいては自由である。

しかし、報道されている範囲でこうした人々の発言内容を見る限り、民主主義とは何か改めて素朴な疑問がわいてくる。以下、その疑問について記しておく。

ある大学教授は、「安倍は人間じゃない。たたっ斬ってやる。」旨の発言をしたそうである。私は耳を疑った。最高学府たる大学教授の発言とは到底思えない。

言論戦という枠を超えてまるで「暴力」を肯定するかのような発言である。ある識者は「もはや平和運動に値しない」と厳しく批判している。法案の中身はもはやどこかに吹き飛び、安倍総理への個人的「怨念」をぶつけているかのようである。個人的信条だからということではもはや許されない。明らかに基本的人権の内在的制約を超えるものだろう。

著名な音楽家は、「フランス革命に近いことが起きようとしている」と言った。絶対王政への民衆の怒りがバスティーユ監獄の襲撃に至った状況を重ね合わせたのだろう。

しかし、まるで社会状況が違うのである。抑圧に苦しめられた民衆の解放という点からの市民革命とこの抗議活動がどう重なり合うのか。法案は憲法に定められた手続きを経て国会で審議されている。

氏の発言はこうした現状を否定し、力ずくで意見を押し通そうとするに等しい。立憲主義という理念をどう認識しているのか。強い疑念を抱かざるを得ない。

さらに、野党党首の発言にも失望した。

民主党党首は、「国民のみなさんが普通の国民がみんな危機感を持って怒っている。そのことを安倍晋三政権に分からせなきゃダメなんです。これから3週間、さらに力を貸してください。一緒になって法案、廃案にしようじゃありませんか」と述べたようだ。

これではまるで反対する国民だけが「普通の国民」で賛成する国民は「異常な」国民だ、と言っているに等しい。なんという傲慢な態度だろうか。多様な意見がある中で国会で議論によって着地点を見出すのが民主主義である。国会での議論が自分たちの思うようにならないからと言って、こうした多様性を否定するかのような発言はいかがなものか?

さらに共産党党首に至ってはもはや言論の府の一員とは到底思えない発言である。「戦争法案反対、安倍政権を羽交い締めにて、参院で採決させない、衆院で採決させない、必ず廃案に追い込み、安倍政権を打倒しましょう」。

(‘法案の内容の誤認も甚だしいばかりか、「安倍政権を羽交い締めにて、参院で採決させない、衆院で採決させない」とは何事であろうか。国会は言論を戦わせる場であってプロレス場ではない。なおかつ、憲法は意思決定方法として「採決」を規定している。明らかに憲法を無視した暴論である。

橋本大阪市長はいみじくも「デモで国家意思を決定するようなことがあってはならない」とこうした動きを批判している。

現在法案は参議院で審議中である。成熟した民主主義というのは、憲法で定める「国権の最高機関」である国会での議論を通じた合意形成のプロセスを言うのである。

多様性を認容しつつ、お互いの主張をぶつけあい合意点を探っていく、という尊い作業を経るからその結論に正当性が付与される。

特に外交や防衛という国家の基本的な方向性にかかわる問題については、現状の共通認識から出発し、そこから抽出される課題についてお互いが具体的なプランを提示しあうということがなければ、不毛な中傷合戦に終わってしまう。これはいわゆる「減点主義」的なものの考え方に慣らされ切った我が国の「病理」ともいえる精神風土からくるものではないか。

このところの一連の騒動を見ていると、我が国の民主主義の成熟度が試されているとみるのは私一人であろうか?

常に世の中の動きを見つめている 常に世の中の動きを見つめている