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どこかおかしい

さて夏の平和安全法制をめぐる国会や国会外での大騒ぎもいつの間にか消えてなくなり、一体何だったのかという疑問がいまだくすぶっている。

学生団体や、学者の会、大学の有志の会など、およそこれまでその存在すら知らなかったような動きが突如として沸き起こった。その主張内容は一致して平和安全法制は憲法9条に違反するからこれを強引に進める現政権を糾弾するというものである。

これに一部の野党が意を強くしたのか、国会での委員会運営の妨害、本会議での中身が全くない時間稼ぎの反対討論など、ありとあらゆる手を使って現政権のイメージダウンを図る戦法に出た。

これらに共通するのは、民主主義というものの根本的な無理解と付和雷同的、ステレオタイプ的思考から脱却できないこの国のいわば悪しき「精神風土」ともいうべきものの考え方である。

現代社会は多様なものの考え方の上に成り立ち、またICTの急速な発達から情報が洪水のごとく押し寄せ、これがさらに多様性に拍車をかけているような印象を受ける。

こうした変化の連続の現代にあって、今日に至るまで共通の価値と認識されてきた「民主主義」がいかにあるべきかを問いかけたのが今回の騒動だったように思える。

特に、グローバル化が進んでいる今日、国際社会の一員としての日本という観点からのものの見方、考え方が益々求められている中での民主主義のあり方が問われているのである。

こうした状況においては、我が国の方向性を考えるうえで端的に言えば、国内法である憲法とともに国際法との関係性を意識しなければならないのは当然である。

これはまさに外交、防衛という国家の基本的な統治にかかわる事項であり、ツールとしての民主主義が我が国のためにまた国民のためにどのように機能したか、その質がどうだったかが問われているものと言える。

しかし、期待は大きく裏切られたといっても過言ではない。

すでに明らかなように、国権の最高機関とされる国会では、およそ「議論」というにはほど遠い「個人攻撃」と「レッテル貼り」に終始した状況であった。

しまいには「多数派の横暴」という使い古された印象操作手法による議論の拒否である。我々の意見を全面的に「丸のみせよ」というまさに「少数派の横暴」の状況に陥ってしまった。

ネット上では「民主主義は多数決ではない」といった批判ともつかないような幼稚な主張も見受けられた。全く民主主義というものへの無理解や「受け売り」が横行していたのである。挙句の果ては「民主主義ってなんだ」などという本まで出版される始末。

民主主義というのは、主権者である国民が自ら国政の在り方を決定していくシステムである。しかし、ものの見方、考え方が多様化している現代にあっては、多様な意見をいかにして調整し、決定して行くかが重要となる。決して単一の意見がそのまま何の修正もなく採用されるということは考えにくくなっている。

これまで私が主張してきた「議論を通じた合意形成の政治」という考え方は、こうした多様化した現代社会における民主主義のあり方を示したものである。

一つの課題に対して、それぞれの立場からの論点を提示し合い、徹底的に議論する。この過程を通じて「着地点」を探っていき、最終的に「合意」する。そこには正当な理由に裏打ちされた「譲歩」が必ず生まれなければならない。全く根拠のない「論駁」の類はもちろん論外である。

問題は、こうした異なる意見を持つ者同士がお互いに「多様性への寛容性」という成熟した考え方を持つか否かである。なおかつ、「国のため」「国民のため」といういわば「私益」より「公益」を求める議員本来の使命感に立っているか否かである。

よく言われるように「あなたの意見には反対だ。しかしあなたが反対する権利は全力で守る」。これが真髄である。

こうした基本的なものの考え方に立脚せずにひたすら反対のみを叫び続ける。そこにはこの国の未来よりも次の選挙での自分の身の処し方を追求するあさましい「政治屋」根性が見え隠れする。

来年には18歳選挙権がいよいよ施行される。次の世代に恥ずかしくないようなこの国の民主主義をつなげていくためには「議論を通じた合意形成の政治」をより一層訴えていかなければならない。我々の責務はあまりにも重い。

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