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平成が終わる

今日4月30日に天皇陛下が譲位され、30年余の平成時代が終わる。明日からは新元号令和となる。新しい時代の幕開けの予感がする。我々議員の新しい任期のスタートでもある。

平成時代の思い出は議員となる以前の県庁時代の思い出がやはり深い。

平成元年度から3年度までは主に国土利用計画法の届け出事務が記憶に残っている。当時はバブル経済のさなか、土地神話といわれた狂乱地価の時代である。どんな土地でも持っていれば必ず地価が上昇して儲かる。まことしやかに囁かれていた。

こうした異常ともいえる地価高騰を抑制するために国策として国土利用計画法を改正して、小さい面積の土地取引も県知事への届け出を義務付け、価格指導を行ったのである。今では地価下落が毎年続いているが、当時は地価上昇をいかにして抑えるかが中心課題であった。

平成4年度から6年度は、市町村課で税政指導の担当業務に従事した。中心課題は、平成6年度の固定資産税評価替え制度の抜本的改革への対応である。

固定資産税の土地の評価はそれまで独自の評価基準が設けられていたが、一つの土地に、固定資産税の評価、相続税の評価、不動産鑑定評価といった、いくつもの評価額があり、それぞれがいかなる関連性を持つか分かりにくい、といった批判が強かった。

そこで、土地の評価額を不動産鑑定評価を基本にし、相続税評価はその8割、固定資産税評価は7割として、評価額の関連性を明確化したのである。平成4年に異動して直ちに固定資産税評価への不動産鑑定評価導入に向けた準備作業に着手した。

その前の職場で不動産鑑定士の登録等の業務をしていたことから、引き抜かれたといっても過言ではない。当時は市町村数は64もあり、地方振興事務所(当時)ごとにその傘下の市町村に対するアドバイスを行っていたが、64の市町村に対して、こちらは担当が私一人、あらゆる問い合わせ等に対応しなければならず、ハードな日々だったことを覚えている。

ただ、この時の経験はその後の仕事の姿勢に大きく影響を与えたと思う。問い合わせに対しては徹底的に事例集や通達などをまず調べ、自分の考えがまとまった段階で初めて国への確認の問い合わせをする。

全く新しい仕事で前例がなく頼る存在がいなかったためこれは当然だが、まず自分の頭で考える習慣はこの時に身についたと思う。

市町村課の時代に交付税の算定事務も関わらせてもらったことは今でも役に立っている。

平成10年度から13年度の障害福祉課時代も思い出深い。ちょうど平成12年の福祉の基礎構造改革対応が大きな課題として異動当初から目が回るほどの忙しさである。ちょうどこの時期ヴァンフォーレ甲府の経営危機に際して街頭署名活動や県庁有志で募金活動を行い、クラブに贈呈したことも思い出に残っている。当時の平嶋総務部長は今でも尊敬しているサッカー仲間である。

介護保険制度や、障害福祉サービスの契約制度化など、いわゆる「措置から契約へ」というパラダイムの転換がなされたときである。これまで障がい者に対して行政の一方的な「措置」制度を廃止し、障がい者が自らサービスを選んで「契約」する制度へと転換が図られた。

と同時に、施設入所から地域生活移行へと転換が図られたのもこの時代である。ただ山梨県の場合は、施設資源がまだまだ足りないということもあって、入所施設も圏域ごとに均衡した整備を図り、通所施設は多くの主体に参入を促した。

幸いなことに、当時の国の経済対策が障がい者施策の分野にも及び、施設整備の補助均予算が大幅に増額されていたこともあって、このチャンスは2度とこない、と施設整備に力を入れた結果、多くの施設が誕生した。山梨県の障害福祉が一気に進んだと今でも自負している。

その後平成14年から15年度は健康増進課に移り、精神障害福祉の業務に従事した。この分野のホームヘルプサービス、ショートステイ、グループホームなどの福祉サービスの立ち上げを行った。当時の保健所の担当者とも議論しながらなんとか仕事を進めていけたことは感慨深い。

平成16年から17年度。県民生活課の時代である。身近な犯罪の増加による体感治安の悪化を受けて、全国的に対策の必要性が叫ばれていた時であり、先進自治体では「安全安心まちづくり条例」をつくり、犯罪者、不審者を寄せ付けないスキのないまちづくりを進めていこうという時である。またしても前例のない仕事を仰せつかることとなった。

ニューヨークの地下鉄の落書きを徹底的に消して犯罪発生が劇的に減ったという有名な「割れ窓理論」をかかげ、お互いが関心を持たなくなる「まち」は犯罪者、不審者にとって格好の仕事場になるという誰もがうなずく理屈を説いて、条例化に向けて検討委員会で議論をしていった。

検討委員会立ち上げから提言まで4カ月余り、条例案作成を3か月で行い、16年度の最後の2月議会への提案をぎりぎり間に合わせ、16年度中の条例制定が実現した。スタート時の部下は1名。その後1名増員してもらったが、少数で最高の仕事をこなした。当時の上司からその後ねぎらいの言葉をいただいたのは今でも誇りである。

そして、県庁生活最後の平成18年度。環境整備課への異動である。最終処分場整備の仕事に従事し、その年の11月いっぱいをもって県庁を退職し、翌年の甲府市議会議員選挙となる。

平成の半分以上は県庁職員時代であり、その時期県庁にいたこと、そして前例のない仕事をいくつも予定通り完成させたことは今でも大きな財産であり、自分にしかできなかったと自負している。

この経験が今の市議会議員としての自分を形作っているものと強く思っている。時代が令和となっても出発点は変わることはない。

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