昨日のことになるが、同居している91歳の父が風邪をひいたらしく、デイサービスを早退してきた。声もかぜ声で、熱を測ると38度を超えていたため、夕方、近所の個人医院で見てもらった。
よっぽど具合が悪かったらしく、両手を支えてやってもうまく歩けない状態。やっとの思いで車に乗せ連れて行き、診察してもらったが普通の風邪の症状ということで薬を処方してもらった。
診察終了後、待合室で会計を待っている間、具合が悪いといってソファーで横になっている父の腰をさすり続けていた。10分ほど経ったであろうか、呼ばれて薬をもらって清算を済ませて帰るときだった。
父の両手を掴んで医院の玄関まで段差に気を付けながら後ろ向きにゆっくり支え歩きで進んでいった。玄関は自動ドアではなく、手動の開閉式ドアである。背中で押して開けようと思って後ろを振り返ったら、一人のご婦人がずっとドアを開けて待っていてくれていた
手がふさがって難儀している姿に気の毒と思ったに違いない。そのさりげない親切がこれほど身に染みたことはない。父を支えながら何度も頭を下げてお礼を言って医院を後にした。そこに温かい空気が流れたことは言うまでもない。,
玄関が自動ドアでバリアフリーであったならばいいのにと思われるかもしれない。が、仮にバリアフリーであったならば、病院という陰鬱ともいえる空間で、病人を抱えてただでさえ沈みがちな気持ちを明るくしてくれたこの方の温かい振る舞いに出会うことはことはなかっただろう。
前に紹介した「記憶障害の花嫁」の「完璧なバリアフリーがあったら、人の温かさを感じられなくなるから」と言った言葉が今更ながらに思い出される。バリアがあって手助けが必要な人に出会ったら躊躇することなく手を差し伸べる。これこそが真の福祉の考え方ではないだろうか。
人と人との「温かい関係」を切断するような結果になるのであれば、「バリアフリー」の考え方も本来の輝きを失うだろう。このことは「まちづくり」を考えるときに見落としてはならない視点である。ちょっとした出来事が再び教えてくれた気がする。