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議論を通じた合意形成へ

国政は21日に衆議院が解散され、12月2日の衆院選公示に向け、各党とも事実上の選挙戦に突入した。自公連立政権に対して、野党では選挙区での候補者の調整等が取りざたされている。

衆院選では、小選挙区と比例区の2本立てで選挙が行われ、小選挙区では一人しか当選できない。与党候補に勝つために、候補者の一本化を図り、そこに反与党の勢力を結集する狙いがある。

しかし、現代では多様なものの考え方があり、政治的な課題に対しても決して一つの考え方に収れんされるとは限らない。候補者の一本化もなかなかうまくいかないのが通例である。

そもそも政党といってもそこに集約された民意があり、これがそれぞれの政党を性格付けている。国民の側からは、自分たちの主張を実現してもらうべくその代弁者として政党に託している。

こうした政党の背後にいる支持者としての国民の存在を無視して、単に反与党というだけで糾合できると考えるのはあまりに安易である。それぞれの民意の共通項的な政策で一致を見ない限り、政党間の連携協力は実際困難であるし、こうした共通政策での連携でなければ、単なる「野合」である。

選挙が民主主義の基本的なツールであればあるほど、政策競争でなければならないということは、むしろ当然のことである。それぞれが自己の政策を出し合い、その議論を通じて国民に選択肢を提供するのが本来の在り方だろう。

このように考えた場合、当然現下の課題に対してこれを解決する優れた政策を立案する技量を政党が持たなければならないことは自明である。なおかつ、議論し合うという態度が求められることはいうまでもない。

何の具体的なプランやアイディアもなく、単に相手の批判ばかりに終始するようでは、到底成熟した民主的政党とはいえない。

我々が期待するのは、現代のような「多様性」をもつ社会にあって、自分の主張ばかりに固執し、異なる考え方を排除するようなあり方ではなく、それぞれが「差異」を認め合い、そこから徹底した議論を通じて妥協点を見出す「議論による合意形成」政治である。

「民主主義は多数決」と多くの人が考えているが、実はそのプロセス、すなわち「議論」の存在を見落としている。議論を通じてある程度までの妥協点を見出したのちに、最終的な意思決定方法としての「多数決」である。

「数の横暴」という言葉がよく聞かれる。だが、その発言がなされるほとんどの場合が、こうした民主的なプロセスを故意に拒否し、議論に応じようともせずに、多数の側の落ち度があるかのように印象付けるケースである。こうなるともはや「少数者の横暴」である。

先の臨時国会最終盤でも「審議拒否」の野党によっていくつかの法案が廃案になった。首相の衆議院解散表明により、もはや審議する意味もないからといった声が聞かれた。

衆院本会議で解散詔書により解散が宣言されるまでは、衆院議員は失職しない。であれば、最後の最後までその職責を果たすべきは当然である。

これまで国会ではこうした「審議拒否」という民主主義理念にもとる不毛な「戦術」が取られてきた。これが国民の政治離れを加速させた一つの要因であることは疑う余地がない。よもや「反論」の理論構成ができないからボロが出ないように「審議拒否」するのでは、と勘繰りたくなる。

今回の選挙戦での野党の主張にも、批判はするが代替案を提示できているとは決して言えないようなものがある。アベノミクスに対する「批判」などがその典型である。株価の回復、行き過ぎた円高の是正、新卒内定率の向上、有効求人倍率の回復、など、その効果とみられる状況は一切無視して、ただ失敗だと強弁するその姿勢には、批判はいいから具体的な代替案を提示せよ、といいたくなる。

これなどは典型的な「減点主義的」な我が国の伝統的な精神風土の産物であろう。相手のアラを探すことによってしか自己主張できない。じつに「ガラパゴス」的な政治風土である。

議論を通じた合意形成。人口減少社会へ向かう我が国にとって、次の世代へ大きな財産を残すためにも、こうしたパラダイムへ転換することが今まさに求められている。

人間社会は情けない 人間社会は情けない

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