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平和安全法制成立をめぐって

いわゆる平和安全法制が9月19日未明に可決成立した。が、ここまでの国会内の情勢や国会外での動きなどを眺めるにつけ、その未成熟ともいうべき我が国の「民主主義」とよばれるものの姿を改めて考えざるを得ない。

衆議院での100時間を超える審議を経て可決後、参議院審議に移った法案に対しては、「良識の府」での議論の更なる深化が期待される。

しかしながら、状況はこの国の民主主義というものがいかに地に足がつかない、単なる政争の具でしかない実態を眼前に突き付けただけだった。

この法案は、昨年7月に閣議決定された切れ目のない安全保障体制の整備を「法制度」として実現するためのものであり、2012年の総選挙の際、自民党からすでに公約として公にされたものである。

冷戦終結後の世界情勢、特に我が国を取り巻く安全保障情勢の変化もあり、また、戦後70年の長き にわたり不戦の国としての地位を確立してきたものの、軍事技術の飛躍的進歩などから、現状の安全保障体制のほころびを修正するため、あえて課題提示を行い、昨年の閣議決定から1年かけて法案として今国会に提出されたものである。

重要な点は、「我が国を取り巻く安全保障環境の変化」についていかなる事態にあっても国と国民を守るために、いかなる対応をすべきか、という点である。この点は、議論をスタートするにあたっての共通認識として国会で「前提」とされなければならない。

外交や防衛の分野は、国際関係という点を常に念頭におかなければならない、非常にデリケートな問題である。公の場での議論はすべてオープンであり、全世界がこれを注視している。

したがって、どうしても政府の答弁や説明には「我が国の国益」という観点から、すべてを詳らかにできないという制約が伴う。この点は当然国会議員は認識していなければならない。

だが、我が国への脅威が厳然と存在することは議員一人一人が言われなくても分かっていたはずだ。私はそう思っていた。だからこそ、万が一の事態を想定して「国を国民をどうやって守るか」という観点からの成熟した議論を期待していた。

何故なら、外患から国の存立と国民の安全を守るという、主権国家としての根本的課題だからである。国の存立が損なわれるという事態に至ればもはや憲法も停止されるということだ。だからこそ真摯に正面から向き合う議論が必要なのである。

しかしながら結果はどうであったか。「戦争法案」などという事実無根のレッテル貼が横行し、国会議論もあらさがしの連続。前述の制約からの答弁の限界などには一顧だにすることなく、しまいには「次の選挙を有利に」という思惑が見え隠れする国会外の反対運動への煽動的な関与。

そこには、国の行く末を案じ真剣な議論をしようなどという姿勢が微塵にも感じられない、暴力行為の専横。いたずらな時間稼ぎ。唯一の救いは、終盤になって意識ある野党3党からの対案の提示だけだった。

かって政権の座についたことのある民主党に至っては、最後まで対案も出さず、しまいには共産党や社民党と連携する始末。またセクハラ暴行議員の出現。

彼らが口にするのは、「国民主権」を踏みにじった、ということだけだ。法案賛成の国民は自分たちが選挙で選んだ正当な代表者である国会議員を通じて意見表明を行っている故、あえてデモなどする必要はない。

ところが、有権者比からいえばごくわずかの反対派の声を聞かないことはけしからんという。橋本大阪市長がいみじくも指摘するように、デモの声で国家意思が決定されるべきではない。反対派だけが「国民」ではないからだ。

国会議員が「国民の声」を持ち出す場合はほとんどが国会論戦で旗色が悪くなった時だけだ。己の不明を恥じよ、ではないのか。

法案に問題点があれば、具体的な形で修正の議論をするのが国会ではないのか。法案を成案に仕上げるのが立法府たる国会の責務ではないのか。あえて言う。法律をつくるのは立法府たる国会だ。内閣は提案するだけだ。この点をはき違えている議員がなんと多いことか。

昨年の閣議決定から1年もたっている。その間に衆議院総選挙もあった。この正当性の付与を根底から覆そうとする野党の態度。そして、コマーシャリズムが席巻するマスコミの追従。

いまだ未成熟なこの国の政治風土である。

つきあいきれない つきあいきれない

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